人生の苦難というのは誰にでも訪れるものであって、その時は「ここから一生動けないかもしれない」と思うもの。
私もまだまだ30代の若輩者ではありますが、自分としては、強迫性障害、うつ病、手術、不妊など、色々な苦しみを経験してきました。もちろん、これからも、いいことも悪いこともたくさんあるでしょう。
そんなわけで、今日はコラム的な感じで「人生の苦難の乗り越え方」について書いてみたいと思います。
目次
「苦難」が訪れない人などいない
苦難に対面したときに「どうして私だけこんな目に合わないといけないの?」と多くの人は思いますが、私としては「苦難」が訪れない人などいないと感じています。
もちろん、私も自分がうつ病になったり、手術が必要になったりしたときには、そんなことは思えませんでした。同じ会社の人たちは、普通に生き生きと働いているように見えていたからです。
両親不仲で悩んでいた学生時代も、家族の話を楽しそうにする同級生に対して、ひどく惨めな気持ちになっていたこともあります。
でも、私は確かに色々悩んできたけど、「お金がない」とか「自分の容姿」とか「持病」などについて深刻に悩んだことはありません。一方でそのような悩みを持っている人もいるでしょう。
人はそれぞれ、他人には分からない自分だけの悩みを抱えているものだと思います。スピリチュアル的に言うと、今世の「課題」とも言えるかもしれません。
正直、生きている中で課題と向き合わされるのは辛いですが、人生を俯瞰して見ると「課題を乗り越えるために生まれてきた」とすら思うときもあります。
きっと課題と向き合い切るまでは、逃れられないのだと思っています。
もがき苦しむ、その中でしか人は成長できない
苦難がない人生ってどうなのでしょうか?
苦難に直面している時には、なかなか「苦難よ、ありがとう」などと、思えないのは当然です。
でも、何も苦しいことがない勘違い人生って楽しいかもしれないけど、人としての成長はないよね、とも思います。
私は、うつ病になった時にはじめて、自ら命を絶ってしまう人の気持ちが分かりました。
それまで、例えば、電車の人身事故などがあった時には、正直、「なんで人に迷惑をかけて死ぬのかしら」と、自分のことしか考えられずイライラしていました。
でも、自分がうつ病になって、ある日電車に吸い込まれそうになった経験をしてからは、「別に迷惑をかけたくてしているわけじゃないんだ。」と気がつきました。
そして、人身事故のお知らせがあった時には「大丈夫だったかな?」と人を心配する気持ちを持つようになり、イライラもなくなったのです。
こうやって、人として他人の気持ちを慮れるようになったというのは、成長のひとつだと思っています。
また、私は不妊の期間が4年以上と長いのですが、10代20代の頃の私は、高齢出産とか子供のいない夫婦に対して、失礼な質問をぶつけていたこともありました。
「どうして子供を持たないんだろう?」と純粋に理解できなかったのです。たぶん、結婚しないことに関しても「どうして結婚しないの?」と理解できなかったです。
でも、自分が不妊を経験し、「子供が欲しくてもできない」という苦しみを長い期間味わったことで、「人それぞれ色々な背景があるのだな」と当たり前のことが腑に落ちました。
子供がいない夫婦だって、持ちたくても持てなかったのかもしれない、結婚だって、したくてしないのかもしれないし、したくないのかもしれないし、
人には色々と事情があって、今の現状を選択しているのだということが理解できるようになったのです。
以前、コミックエッセイで、子供ができずに犬を飼い始めた夫婦に対して、「あの人たち子供いないのよ。私たちの子供が結局面倒見るのよね~」と嫌味を言っている人の描写がありました。
私も、スムーズに結婚して出産していたら、そんな人間になっていたかもしれません。子供のいない人に対して「子供可愛いわよ!早く産んだほうがいいわよ!」などと言っていたかもしれません。
私は、そんな人間にならなくてよかったと思います。不妊に感謝しろというのはなかなか難しいところがありますが、悩んだ長い期間が私を人間的に成長させてくれたのは確かです。
自分にはその「苦難」が必要だと腹をくくる
こうやって「苦難」を振り返れば、色々な意味づけを自分の中でできて納得できたりもします。
でも、「苦難」の真っ最中には、意味など全く見えてこないでしょう。なぜ、自分がこのような目に合わないといけないのか、それは後から自分で解釈してはじめて生きてくるものだからです。
なので、私は「苦難」に直面している最中には、「この苦難は私にとって必要なことなのだ」と腹をくくるようにしています。
今はこの苦しみが何につながるのかは分からないけど「この出来事は私にとって意味のあることだから起こっている」と思うようにしています。無理矢理にでも。
途中に何があっても自分の最善にたどり着く
また、いつも私が思うのが、
「最終的には私の最善にたどり着く」
ということ。
例えば、私は「本当に子供を持てるの?」とずっと悩んできて、現状をコントロールしたいと考えてきましたが、最終的には自分の最善にたどり着くのだろうと納得するに至りました。
私は、不妊治療を頑張っていますが、「最終的に子供ができるかできないかは分からない」「できればラッキー」「でも、できなかったら、子供がいないことが私の最善なのだろう」と理解しているということです。
自分の人生をコントロールしたいと言う気持ちを手放しました。表面的な望みが叶うことが私にとっていいことなのか悪いことなのかは、結局分からないからです。
仕事に関しても、ライターの仕事が急になくなったり、やりたかった仕事がポシャったり、いろいろなことがありますが、「きっと今はこの出来事が必要なんだ」「今は、タイミングじゃないんだ」と思うようにしています。
結局、人生の中に色々な苦難はあるけれど、最終的には自分にとっての最善に運ばれると1回信じてみると、非常に楽になれます。
実際に、後から答え合わせをしてみると、苦しかった出来事が「ここにつながっていたのか」と腑に落ちることが多いので、本当にそうなのだと私は思っています。
まとめ:まだみんな人生の「途中」
と言っても、まだまだみんな人生の「途中」です。
苦難に直面していても、幸せの絶頂にいるとしても、まだまだ人生は「途中」なわけで、これからどう展開していくのかは誰にも分かりません。
結局は、「今できることをやる」
しかないのかなぁと思います。
自分ができることに集中して、自分のために生きて、あとは、大いなる何かにおまかせするしかないのだろうと。世の中には自分でコントロールできることと、そうでないことがありますからね。
今、「苦難」に直面している人も、腐らずに自分ができることをやっていけば、少しずつ状況は好転していくはずです。とりあえず、今日1日だけ頑張って生きてみるってことで、どうでしょうか?